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ビアホフ記念館

ビアホフおじさんの近況

2006年7月12日
クリンシがドイツ代表監督退任。後任としてアシスタントコーチだったヨアヒム・レヴさんが就任しました。
ビアホフ・マネージャーとケプケ・コーチはそのまま留任。
戦術的な面での実質的な監督はレヴさんだったのでプレースタイルやらは変わらないだろうし、選手の信頼も厚いんですが、クリンシほどDFB旧勢力&ビッグクラブ&マスコミに強く対抗できるかがちょっと心配。その辺り、ビアホフとケプケさんがちゃんと手助けできるかが今後の課題。

2006年6月30日
乱闘騒ぎ久々に画面に映ったと思ったら、乱闘の中心になったました(笑)

(BS中継の録画を見直してみた乱闘の流れ)
カンビアッソがPKを止められた後、ドイツの選手のほとんどとビアホフがレーマンに飛びつきに行く。上方遠くからの映像に切り替わった時に、ビアホフが急に何かに気づいてピッチ中央に走っていく姿が映っていて、また喜ぶドイツ代表のアップに画面が変わった時に後ろの方でアルゼンチンの選手を捕まえて話をしている姿が映ってる。
 ↓
ドイツ選手がベンチに向かって移動。ここまで姿の見えなかったノイヴィルがレーマンに飛びつく。レーマンがメインスタンドに歩いていく時に、ちょっと後ろを気にする。
 ↓
ビアホフにクルス他アルゼンチンの選手がいっぱい詰め寄っている。エインセがビアホフに駆け寄って激しく何か言う。シュヴァインシュタイガー他ドイツの選手数名と審判他が間に割ってはいる。物凄い勢いでマクシが走り寄ってきて、ビアホフの前にいたシュヴァの頭をどつく。どつかれながらもシュヴァがビアホフを一旦集団の中から引き離す(この時フリングスは集団の後方でのんびり歩いている)。
再びアルゼンチン側の選手がビアホフに詰め寄ってきてドイツの選手と言い争いになり、止めようとする選手と詰め寄ろうとする選手でもみくちゃになる。 アジャラがビアホフに何かお願いするような感じで近づく。

(ドイツ・イタリア・イギリスのニュースサイト等からの経緯)
PK戦でドイツが蹴るときにアルゼンチンの選手が騒いでいた(ドイツ紙)
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ボロウスキがPK成功後にアルゼンチンに向かって唇に指を立てる「黙れ」のポーズをする(各紙)
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「PK後にノイヴィルがコロッチーニに絡まれてたので、セリエ時代の知り合いのアジャラもいるし、仲裁に行った」(ビアホフ談)
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そして乱闘へ(仲裁するんじゃなかったのか?(笑))
 *メルテザッカーがクフレに蹴られる 写真 
 (メルテが標的になったのは背格好の似ているボロウスキと間違えたのではないかと、ガゼッタ紙))
 *フリングスがクルスを殴る? 写真 
 (カンビアッソがなんとも可哀相。クルスは殴られてないと言ってますが、フリングスは次試合出場停止)

(たぶんこんな経緯だったんじゃないかなあ〜という自分の予想)
*ノイヴィルが最初標的になった理由〜PK合戦の時にノイヴィルがアルゼンチンに近い所にいたので、アルゼンチン側に何か言ったのかもしれない(ノイヴィルはイタリア語(スペイン語と意思疎通可能)ができる)。単に体格的にはりたおし易そうだったからかも。
*ビアホフがアルゼンチンの選手に詰め寄られていた理由〜この人もイタリア語できるので、ドイツ代表の代弁者としてアルゼンチン選手からの苦情・批判が集中してしまったんじゃないかなあ。アルゼンチン側はエインセがドイツ語ができるので、アルゼンチンの他の選手の代弁者として特に食ってかかっていた。ちなみにクリンシもイタリア語OK。

◆ビアホフの現在の仕事「チームマネージャー」って何?

クリンスマンが新監督となって着手したのが、アメリカNBAのようにメンタル面、技術面、それぞれに専門スタッフを設ける事。ビアホフの「チームマネージャー」は、ドイツ代表初のポスト。
何をするかというと、本人やベッケンバウアー会長のインタビュー記事によると、クリンシがチーム作りに専念できるよう、スポーツ面以外の事 -- トレーナースタッフ、代表選手、協会の間の連携を取り持ったり、メディアやブンデスリーガのクラブとの窓口になったり -- を受け持つらしいです。
要するに雑用係では?という気もしますが、せっかく取ったマネジメントの資格が生かせそうな仕事ではあります。
また現役当時のチームメイトも現代表に何人かいるので、クリンシの仕事の邪魔をしない程度に選手のサポートもしていくらしい。
手本としたい人はバイエルン・マネージャーのウリ・へーネス氏だそうな。

ACミラン選手カードオリヴァー・ビアホフ Oliver Bierhoff 身長191cm
 (本人公式サイト 03年11月から掲示板のみに縮小→05年閉鎖されました )

 利き足=頭と揶揄されるほど、長身を生かしたヘッドが得意。ヘッドが飛び抜け過ぎて頭だけというイメージもあるが、足技もちゃんとある。

 実直真面目な努力家で、数年かけてハーゲン大学の通信講座で経営学を学び、2002年5月に学位を拾得する。将来はこの資格を生かし、マーケティングの仕事をしたいらしい。
 趣味はテニス、ゴルフ、株投資。 読書好きで、外で大騒ぎするより、家でのんびり過ごす方が好きだそうだ。
 Mac使い。好きな俳優はPeter Ustiov (「ナイル殺人事件」などのポアロ役)

 2001年6月に、元ミュンヘンのバスケットボール選手でモデルでもあるクララ嬢と、ザルツブルグのミラベル宮殿にて市民婚をあげる。その後ガイスブルグでザルツブルグ市長主催の結婚披露宴。その翌日にニーダーバイエルンのOberflossingにあるカトリック教会で結婚式。新婚旅行先はアメリカ。

*** 経歴 ***

 1968年5月1日ドイツ・カールスルーエ生まれ。

 育ったのはエッセンで、少年合唱団に所属しテニスをするかたわら、サッカークラブ「Schwarz-Weis Essen」にも所属。同じクラブにイェンス・レーマンJens Leman(現ドイツ代表第2GK)もいたらしい。
 数学が得意で、頭も良かったらしく、アビトゥーア(大学受験資格=独ではインテリの証)を取って大学に入ろうとしていたが、1985年プロサッカー選手の道に転向。ドイツU-19代表、U-20代表に選ばれ、22試合出場。
 途中で兵役も体験(ドイツは徴兵制があるので、18歳になると10ヶ月の兵役、又は民間役務(期間は兵役より長くなる)の義務がある)。

 サッカー選手としての滑り出しは良かったが、ここから波瀾万丈な人生が始まる。

 プロになったもののクラブシーンであまり良い結果を出せず、バイヤー・ユルディンゲンから、ハンブルガーSV、ボルシア・メンヘングラードバッハと移り、1990年にはとうとう国外、オーストリアのカジノ・ザルツブルグへ。この年から引退までの13年間、ずっと国外で過ごすことになる。

 ザルツブルグで23得点をあげ、1991年晴れてセリエAのインテルへ移籍するが、同じくセリエAのアスコーリへレンタルに出される。翌年アスコーリはセリエBに転落。恵まれない人である。

 でも諦めることなく頑張った。
 セリエBでの3シーズンで合計43得点をはじき出し、1995年セリエAのウディネーゼに移籍。ここでも17得点をあげ、ドイツA代表に呼ばれる。代表デビューは1996年2月21日のポルトガル戦。27歳のことである。
 1996年6月30日、96年欧州選手権(EURO96)チェコとの決勝戦においてゴールデンゴールを決め、ドイツを優勝へと導いた。

 この頃が彼の絶頂期で、ウディネーゼでは96/97シーズンは13得点、97/98シーズンは27得点をあげてセリエA得点王に輝く。
 98年フランスW杯は全5試合フル出場(ドイツはベスト8止まり)3得点をあげる。終了後クリンスマンの引退を受けて、ドイツ代表主将の座に。

 98/99シーズン、ウディネーゼの監督だったアルベルト・ザッケローニと一緒にACミランへ移る。ここで19得点、チームのスクデット獲得に貢献する。


 99/00シーズン、クラブでは11得点とそこそこの結果をあげていたが、主将を務める代表の方が過去最悪な状態になっていた。
 まずビアホフ自身が代表では不調で、99年9月から00年6月まで9ヶ月もノーゴール。
 そして98年W杯時に「アンダー36、じじい集団」と叩かれたチームは2年経っても世代交代がうまく進まず、39歳マテウスなどという恐ろしいものを引っぱり出さなければならない始末。チームは内部崩壊し、2000年欧州選手権(EURO2000)を、ドイツは1次リーグにおいて一勝もあげられず敗退という散々な結果で終わった。

 00/01シーズン、歳による衰えが顕著になり、クラブ・代表ともに得点できない日々が続き、シーズン終了後ACミランよりモナコへとレンタルに出される。モナコでの01/02シーズンは、怪我や監督との確執もありベンチウォーマーと化す。
 代表の方もほとんどベンチで、キャプテンシーはGKのオリヴァー・カーンが代理で着ける事が多くなった。国では皇帝ベッケンバウアーをはじめ、「さっさと主将やめろ」と叩かれる。

 02年ワールドカップ予選でドイツ代表はプレーオフに廻った末、なんとか出場権を獲得する。
 2002年1月、主将の座をカーンに渡す。しかしFW不足のため、代表にはそのまま留まる。

 2002年5月、日韓ワールドカップメンバーとして来日。初戦のサウジアラビア戦で途中出場、職人技のミドルシュートを決める。これがこの大会唯一のゴールかつ代表としての最後のゴール。そして横浜でのブラジルとの決勝戦(後半途中出場)が代表最後の試合となる。
 なお代表引退セレモニーは、11月にゲルゼンキルヘンでやったらしい。約6年間で代表キャップは70。総得点は37で歴代7位。

 W杯後、ACミランとの契約が切れフリーに。Jリーグ、古巣ウディネーゼへの移籍、このまま選手引退などの噂もあったが、8月16日にセリエAキエーヴォ・ヴェローナへの移籍にサインする。
 移籍後初試合となるラッツィオ戦で得点。その後本国のTVでチャンピオンリーグの解説者などをやる傍ら、ミラン、ウディネーゼと古巣相手に得点をあげ、12月14日のピアツェンツァ戦でセリエA100ゴール目を記録。目標を達成して満足したのか、それ以降は無得点。このシーズンを最後に引退する事を表明。

 そして公式戦最後となる最終節のユーヴェ戦、意地のハットトリック。最後に一花咲かせる(しかしチームは4-3で負けて、UEFA枠を逃す)。セリエAでの得点合計は103ゴール。
 2003年6月3日ベガルタ仙台とキエーヴォの親善試合のため来日。翌4日親善試合。これが現役選手としての最後の試合となる。
なおキエーヴォ仙台来日の際の様子は以下のサイトで見られます。

フォルツァアズーリクラブ (来日戦の主催をされた所です。キエーヴォ来日ページに写真多数)
コナミ (来日戦スポンサー。コナミTV ch内で来日時にウイイレで遊ぶ選手らの姿(ビアホフではないです)が見られます。(コナミTV chで「アズーリ仙台キャンプ」で検索するとヒットします。(どうしても正攻法で入れない場合、場所はここです→直はwww.konami.co.jp/ja/tv/news/0364/0364.rm

 なお2003年7月NHKイタリア語会話に出演(インタビューのページに内容アップしています)、同年10月放送分のNHKドイツ語会話に4週連続出演(両方とも来仙時のインタビューの録画放送)。

*** 現役引退後 ***

ビアホフ 引退後は、ゆっくりしたいとの事でミュンヘン近郊のシュタルンベルグ湖に居を構える。

 2003年3月にルンメニゲやクリンスマンと共に06年ドイツW杯の親善大使に選出されたので、その関係と、以前から契約のあるナイキのマーケティング関係の仕事を暫く続ける予定(・・・だったのですが)。また03/04シーズンはドイツSAT1(衛星放送)と契約し、チャンピオンズ・リーグのバイエルンがらみの試合のコメンテーターを勤める。

 2004年4月、1860ミュンヘンのコーチにという話があったが、06年W杯の方の仕事(親善大使)を優先させるとの事で、断ったらしい。あと6月にレバークーゼンのGMカルムントが心臓発作で倒れた時、次のGMとして名前が挙がったらしいが、これはネタ元がBild紙なので本当かどうかはかなり怪しい。

クリンスマン&ビアホフ1クリンスマン&ビアホフ 2004年7月、ルディー・フェラーの代表監督辞任後、誰もぼろぼろのW杯開催国の監督をやりたがる人がおらず、すったもんだの末後任監督にユルゲン・クリンスマン氏、そして補佐役としてトレーナーに元浦和監督のオジェック氏、チームマネージャーにビアホフの名前が上がる。オジェックは最終的にクリンスマンと方針が合わず辞退し、ビアホフも契約のからみで決断が遅れていたが、7月29日正式にクリンスマンがドイツ代表監督、ビアホフがチーム・マネージャーとなる。契約は2006年ドイツW杯終了まで。
この2人がFWコンビを組んでいたフランス大会って、ついこないだのような気がするんですが・・・しかし6年経っても爽やかだな、この2人。

◆ドイツの代表監督が決まるまでのすったもんだは、以下のとおり。

ユーロ2004のグループリーグ敗退の責任を取ってルディ・フェラーが辞任 → 元バイエルン監督のヒッツフェルトが有力とされたが断られる → ギリシャ代表監督レーハーゲルに断られる → もう外国人でもいいやとベンゲル、ヒディング、オルセンに声を掛けたが断られる → ハンガリー代表監督だったマテウスが名乗りをあげたが無視される(笑) → ルンメニゲ&フォクツの推薦でクリンスマン(クリンシ)&オジェック&ビアホフのトリオに白羽の矢が立てられる → クリンシがアメリカより帰国し、代表監督就任に意欲的であることを表明(この時点でビアホフは「まだクリンシとは何も話してないよ」とコメント) → クリンシとオジェックの話し合いの結果、方針の違いからオジェック就任拒否。ビアホフは返事を延ばす(現在ナイキがらみの仕事をしているが、DFB(ドイツサッカー協会)はアディダスなため、それがネックになった模様) → クリンシの代表監督、ビアホフのチームマネージャーが公式に決定 → オジェックの代わりに、元シュツットガルト監督のレヴが監督補佐就任。

 2004年9月9日
ドイツ対ブラジルの親善試合観戦。最初観客席で見ていたが、終了間際ベンチまでやって来ていた。
ワールドカップ親善大使はチームマネージャー就任に伴いやめたのかと思っていたら、まだ大使らしい(クリンシの方はどうなんだろう)。参照リンク

 2006年4月29日
ドイツ代表マネージャー職の契約を2010年まで延長。参照


所属クラブ歴 ドイツ代表歴
シーズン 所属クラブ 出場回数 得点数 キャップ数 得点数
86/87 KFC Uerdingen 19 3 (8月〜7月を
1シーズンとして計算)
87/88 KFC Uerdingen 12 1
88/89 Hamburger SV 24 6
89/90 Borussia Moenchengladbach 8 0
89/90 Hamburger SV 10 0
90/91 Casino Salzburg 32 23
91/92 Ascoli Calcio 1898 s.p.a. 17 2
92/93 Ascoli Calcio 1898 s.p.a. 35 20
93/94 Ascoli Calcio 1898 s.p.a. 32 17
94/95 Ascoli Calcio 1898 s.p.a. 33 9
95/96 Udinese Calcio 31 17 8 5
96/97 Udinese Calcio 23 13 6 2
97/98 Udinese Calcio 32 27 16 13
98/99 AC Milan 34 19 9 4
99/00 AC Milan 30 11 10 6
00/01 AC Milan 27 6 6 0
01/02 AS Monaco 17 4 14 7
02/03 Chievo Verona 15 7
合計 431 185 70 37

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